市川市の解説

ホーム>市川市

市川市

市川市のご紹介

市川市(いちかわし)は、千葉県北西部にある人口約47万人の市。旧東葛飾郡(葛飾郡)。千葉市、船橋市、松戸市に次いで千葉県では人口第4位。東京都特別区部への通勤率は46.5%(平成22年国勢調査)。

市川市は、江戸川および旧江戸川をはさんで東京都の隣、都心から20km圏内に位置し、首都圏のベッドタウンとして発展している。
南部は住宅地としてひらけているが、北部の傾斜地等には豊かな自然が斜面林などとして、いまだ残っている。市北部の市川、真間、新田、平田、菅野、八幡などは市の木であるクロマツも多く静かなたたずまいであり、これらの地区は、戦前は東京下町の富豪が別荘を構えたり、戦後も敷地の広い邸宅が多い高級住宅地となっている[1][2]。過去には永井荷風、幸田露伴(次女の幸田文、孫の青木玉も同居)、北原白秋など数多くの文人が好んで住み、市川に関する記述がある作品も多い。これら文人の足跡が、市民団体や市などの手で「市川文学の散歩道」として残されている。上記のようなクロマツの繁った住宅街の存在や、歴史のある町で古刹が多いこと等から千葉の鎌倉と呼ばれることもある[3]。
しかしながら、近年は大邸宅も相続等の関係で切り売りされたり、マンションや駐車場に変わってしまい少なくなっている。また、車社会となり路地が狭く入り組んでいる等、不都合ともなっている箇所も多く、人口の増加や開発も進み閑静な風情も薄れつつある。

地理

千葉県の北西部にあり、市の西部は江戸川と旧江戸川を挟んで東京都江戸川区と接している。北部は松戸市、東部は船橋市、北東部は鎌ケ谷市と接し、南部は浦安市、東京湾と接する。市の南部は海抜2m程度の平野で、北部は海抜20m程度のなだらかな台地となっている。最高点は国府台地先、里見公園内で30.1m。最低点は福栄地先で0.1mとなっており、一部で海抜ゼロメートル地帯が広がる。
地質学において東北日本と西南日本の境目とされるフォッサマグナ東縁の柏崎千葉構造線が北西-南東走向に貫いている。
市川市と船橋市の境界付近から東京湾沿いに千葉市中央区付近まで延びる長さ約22kmの東京湾北縁断層の存在が推定されていたが、調査の結果、推定されていた位置を含め調査した範囲内には活断層は確認されなかった。(千葉県の見解)
1992年(平成4年)度の県の調査結果に加え、国の地震調査研究推進本部地震調査委員会においても、2001年(平成13年)11月に、「東京湾北縁断層は活断層ではない」との評価を公表した。

歴史

市川・真間・菅野・八幡・鬼越近辺は、国道14号線より山側に、旧別荘地から近郊住宅地に変貌したが、黒松のある高級住宅地地域がある。
市川市域は、縄文時代の昔より栄えた地域で、市内には堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等多数の貝塚があり、その集中度は国内最大級である。また、律令時代には市域に下総国の国府が置かれた。市内の真間に手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、そのうわさは遠く都にまでとどき万葉集に詠まれるほど有名で、当時は東国(関東)を代表する地域だった。
市川の地に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には、旧石器時代の遺跡がいくつかある(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。また、貝塚等縄文時代の遺跡は約60箇所にのぼる。さらに、弥生時代の遺跡も何箇所かある(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。
市川市の中でも、国府台より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担ってきた。古墳時代初めには小集落ができた(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)。古墳はこのときはまだない。その後、この高台上にも多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳のほか、国府台近辺だけで約30箇所の古墳があったと推定されている(国府台古墳群)。
その後、国府台に律令制により国府が置かれ、下総国の中枢となった。10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の合戦に敗れて安房国に落ち延びた源頼朝が、上総広常と下総国府で合流して軍勢を立て直した。15世紀には太田道灌が国府台に仮陣を置き、その弟の太田資忠が国府台城を築城した。16世紀には、国府台城は、里見義堯ら里見氏と後北条氏との間で2度にわたり戦われた国府台合戦の舞台となった。
戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。すぐに大鳥・土方らは宇都宮を経て日光へ向かったが、その後、別の旧幕府軍(撤兵隊)と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。
幕末、国府台地区は勝海舟によって国会議事堂の選定地として考慮に入れられたこともある[要出典]。
また、1875年(明治8年)には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団 に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米二通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった。)が持ち上がり、具体的な案もまとまり、土地の買収も進められていたが諸事情により実現しなかった。
さらに1885年(明治18年)には都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地に恵まれていたことから、大学校用地跡に陸軍教導団が置かれた。教導団は1899年(明治32年)に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院などが置かれ、市川は軍都として栄えた。
終戦後、陸軍の広大な土地は、国立国際医療研究センター国府台病院(旧・国府台陸軍病院)、国府台スポーツセンター、東京医科歯科大学、千葉商科大学、和洋女子大学、筑波大学附属聴覚特別支援学校、千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校、千葉県血清研究所の各施設に変わった。
国府台以外の地区についていえば、中山地区は、中山法華経寺の門前町として発展した。行徳地区は成田街道の宿場町として、また江戸川水運の中心地として発展した。また、近世における行徳地区の製塩業は有名である。

ホーム>市川市

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional